深く考えなくてもいいのかも

この前、職場の会議に出席していてはたと気がついた。
自分は考えすぎなのかもしれない。

私が思うほど、みんなあまり考えていないのではないのか。

これは嫌味ではない。

わたしは恐らくセクのせいで
物事を不必要に深く考える癖がついている

よく言えば想像力豊か
悪く言えば考えすぎて傷つきやすい

始まりはこうだった

「なんで生きてるんだろう」

わたしは遠い昔から子孫を残すつもりはなかったし
同性愛者が子供を持つという不自然さには違和感を感じている同性愛者なので
じゃあ、わたしが生まれてきた意味は何かと聞かれると
何もない気がしていた時期があった
10台の頃だ

生物学的に意味がないのなら
生命をつなぐ役割も持たないのなら
何故生きているのか

それは、死ぬ理由を見つけるような考えでもあり
逆に生きる答えを探すような考えでもあった

おまけに一人っ子で考える時間だけはたっぷりとあって
それはそれは考えた

そんな個性なのか訓練のおかげなのか
よく分からないけど
とにかく、社会人になっても同じようにいろんなことを考え、反発し、問題が起きると何故なのかといつも考えてきた。

最近は歳をとり面倒になってあまり考えなくなっているけど
これは経験の中から考えても仕方がない
ということに気がついたからでもあった

でも、癖なのでふとしたときにやはり考えてしまう

話は戻るけど、職場の会議で話を聞きながら、やはり色々考えた

そもそもやるべきことをスタッフがやっていない
と言う話の流れであった

・何回も指導しているけど改善されない

・最近の子はおかしい

ゆとり世代ね〜

もうこの話のやりとりも色々な場面で繰り返してきた内容で聞き飽きた

じゃあ、どうするわけ?
たとえば完璧に指導をしたの?本当に?
今の子今の子というけれど
あなたが今の時代に生まれたとしたら
今の子みたいにならなかったの?

指導をしても治らないのは現状で
原因は必ずしも相手だけにはない

話し合っていた内容に関しては
指導の方向性を諦めて
別方法でその脆弱さを補おうという活動の途中のはなしであったが
なぜ別の方法で補おうとしたのか?
本当にそれは良い方法だったのか?
仕事量ばかり増えたんじゃないか?

そもそもこんなに便利な世の中でそれでも鬼のように忙しいのは
個人情報保護、権利、ゆとりのなさ
からきているものであって
当人の責任ではないかもしれない

そしてとある人が言った

「最近は不便益ってのがあるんだよ。」

話を聞いていると、わたしが何回も考えているようなことだった。
何故このことを考えるようになったかというと
多分、研究をしていた期間もあったからなんだけど
なんのために研究するのか考えたときに
結局は便利さとか有益なことのためなんだけど
どれだけ便利になっても誰も暇にはなっていないのだ
新たな色々なことが増えて
ストレスも増えて
処理速度が速くなって
その分また新たに誰かが問題提起をする

え、余った時間を有意義に過ごすために研究しているのではなく
余った時間は結局持て余して、わざわざ問題提起しているようにしか見えないのだ
もしくは便利のために新たな問題が生じやすくなっていることもある

だから、一旦不便な方に戻ってみてはどうなのか
と前から思っていた

流石に不便益とまでかっこいい思想は思いつかなかったけど
不便さの大切さは感じていた

だからその話が出た時
今更感があった
すると隣の人が

「え〜そんなこと考えたこともなかった。難しくてよく分からない。」

と言った。
これが若者ならいいのだけど
私より年上の、しかも役職のある人だった
誰かの上司である人だ

考えろや!!!!


という思いもあったのだが
同時に、別に考えなくてもいいような気もした
っていうか、その話を持ち出した人も目新しそうに言ってたし
意外と皆考えないで働いてる

そして別にそれでいいのかもしれない
起業家なら困るだろうけど
組織ってそんなものだし
それの方が余計なこと考えずに済むし
楽なのかもしれない

だから、私もごちゃごちゃ考えないで
時には、考えて
でもあまり考えないで、とにかくやっていけばいいのかも
と思った


完全に考えないのは悲しいけどね・・・・